南方熊楠

 五年九号四二頁に宮本君が書いた、周防大島願行寺にむかし住んだ、非常に強記な僧の話は、和漢諸方に古来類話が多い。今ほぼその話を添えられた本人どもの時代の新古に順次して、左のごとく列ね挙げる。
「蜀山人は、(中略)伝えていう、かの人江都小田原町辺の魚肆に因みありて往きかいけるが、一日かの家に往きけるおり、店にありける帳を把って、漫に披閲しけれども、その身に無用の物なれば、熟視するというにはあらず、物語などする間に間に、始めより終りまでくりてみたりしが、そのままに掻いやり捨てて気にもとめず。かくて帰り来たりしが、その家祝融氏の怒りに触れて、たちまち灰燼となりぬ。よって蜀山も彼処へゆき、その無事に火を避けしや否をとうに、主答えて、おのおの無事なり、さわれ不慮なる急火にして、家財は大半失いぬ、そはとまれかくもあれ、店にありつる帳を焼きつ。こは浜方より運送の多寡、かつ諸方への出入り勘定、みなことごとく帳に託す。しかればかの帳はわが家産なるを、遽しき騒ぎに紛れ、焼き失いしや弗にみえず。

「易の占いして金取り出だしたること」と題して『宇治拾遺』に出た話は、旅人が大きな荒れ家に宿を求むると、内には女一人しかないらしく、快くとめてくれた。夜あけて物食いに出掛けると、かの女が君は出で行くわけにゆかぬ、留まれ、と言った。何故と問うと、わが金を千両君に貸しあるから返したのち出でゆけ、と言った。旅人の従者どもからかい半分、きっとそうだろうとまぜ返すを、旅人は真面目に止まって占いを立て、かの女を呼び出し、汝の親は易の占いをしたかと尋ねると、何か知らねど今君がしたようなことをした、と答う。そうだろう、さて何ごとで予が千両負いおると言うかと問うに、親が死にざまに多少の物を遺し置き、十年後の某の月に旅人が宿るはず、その人はわれに千両負うた者だ、その人にその金を乞えと教えて終わった、その後親の遺した物を売り食いして過ごすに、もはや売る物も尽きたから、親が予言した月日を待っておったところ、ちょうどその日に君が泊ったから千両を求むる、と言った。旅人、金のことは真実だと言って、女を片隅につれてゆき、とあるから、また例の千両の金の代りに鉄の棒を一本ぐっと進呈などとくるところと気を廻す読者も多かろうが、そんなことにあらず、一つの柱を叩かせると中が空虚らしく響く、この内に望みの金がある、小切りに出して使いたまえと示して旅人は去った。

 此言葉に誤字もあるべく、分らぬ事も多いが、要するに賣女の稱呼や其方の用語が多きに居る。けんどんの君迄は判つてゐたが、西國順禮とは何か一向分らなんだ。處が三月號三一頁に出た鳶魚先生の「女順禮」を讀んで、賣女の一群に西國順禮も有つたと判つたから厚く御禮を申し上げておく。
 件の詞はけんどんの君にほだされて胸に思ひの絶間なきを、西國順禮が順拜所の棟に打付ける木札の絶る間なきに比したので、胸を棟に通はし言ん爲に、傾城、讃茶、けんどん等と同じく賣女の一群たる西國順禮の稱呼を出したので、捻くつていはゞ、貫之が「早くぞ人を思ひそめてし」と云んとて「岩波高くゆく水の」と構へ、その前置きに「吉野川」とよみ出した如し。扨鳶魚先生が言れた通り、足薪翁記に寛文の頃女巡禮[#「女巡禮」はママ]夥しくはやつたとあるは此事の沿革を知る材料になる迄であるが元祿三年出版の本既に西國順禮を賣色女の列に入れあるをみると、先生が示された寶永元―七年に此の賣女群が始まつたでなく、多からぬ違ひ乍ら、寶永の初めよりは少なくとも十三年前、はや西國順禮の出立ちで如何はしい業をする女群が歩いたと知る。